お知らせ(ブログ)
移民?????
旧南区で自治会連合会単位の7か所で、県政や地域の課題をお聞きする会を開催しています。
の会合の中で、今後、インドを中心とした外国人労働者が多数押し寄せ、市内にはモスクが建設され、特定技能2号については家族も来日することができるため、外国人の比率が圧倒的に増大し、彼らがコミュニティを形成し生活環境が一変してしまうのではないか?といった不安の声が寄せられました。また、ヨーロッパでは移民政策のが失敗し、数々の暴動や事件、もともとの国民感情の反発などを招いているのに、なぜ日本や静岡県、浜松市は移民政策を推進するのか?といった声も聞かれました。
まず、大前提としてヨーロッパ各国の移民政策は、難民の無条件受け入れという政策で、財産もなく着の身着のままで出国してきた難民を受け入れ、テントや仮設住宅と食費(または食事)の衣食住を提供し、その後は自力で職について生活を安定させ、ひいては国内の貴重な労働力として国益に貢献してもらう。というもですし、アメリカに至っては移民の多くは不法入国者だったというのが事実でしょう。
外国人の犯罪比率も増えたという数字は見当たらないし、そもそも何故強盗や殺人の重要犯罪を起こすのかと想像すれば、食うことに困っている⇒強盗、自分の人生や将来に希望が持てない→無差別殺人につながっているのではないでしょうか?
その点では着の身着のまま入国してきた難民が犯罪に走ってしまう背景の日筒になりうるし、それは日本人にも当てはまっているのではないでしょうか?
日本の難民受け入れを見てみると、難民認定申請者数は12,373人で、前年に比べ1,450人(約10. 5%)減少。また、難民の認定をしない処分に対する審査請求数は3,273人で、前年に比べ1,974人(約37. 6%)減少。
とごくわずかですし、そもそも移民政策は存在していません。
労働力確保のため苦肉の策として業種を絞り外国人を受け入れていますが、永住権を与えているわけではないし、特定費農実習生として来日する外国人は、母国で最低限の日本語を習得し、来日する時点では就職先も決まっているし、就職先の企業では住居も完備している記号も多くあります。つまり食べるものに困ったり将来を悲観する利用がないので犯罪に手を染めてしまう原因がない=犯罪を起こさない人たちと位置付けることができます。
ごく一部には、実習先から逃亡し、不法滞在者となり国内に潜伏・生活をする外国人もいるでしょうが、それは犯罪として警察と出入国在留管理庁が取り締まり、みつければ強制送還となるのです。
こんな国内の政策とヨーロッパの移民政策を同一視し、不安をあおるような政党があることが残念でありません。
仮に確たるエビデンスに基づいて安全だと言っても、安心とは個々の感覚によって異なるので全員が安心していただけるわけではありませんし、そのためには行政は説明を尽くす必要があります。
少なくともヨーロッパ諸外国とは全く異なる制度で足りない労働力を確保しようとしているのが日本なのです。
とはいえ、地域でゴミ出しのルールなどが守られず、もめ事や自治会の嫌煙事項になるケースもあります。
静岡県でも多文化共生(どうせ同じ地域で暮らしを営むのなら、互いに理解を深め馴染んでいきましょう)を推進し、日本語教室や多言語対応の相談窓口を設けていますが、やはり地域の文化風習や生活のルールまでケアできていないのは事実です。
現在、日本語教室や相談窓口は県をはじめとした行政が行い、その地域や生活のルールなどは受け入れ企業が責任を持って指導する。そのためには、案内・説明文の翻訳、ルール講座などを開催する場合に通訳の派遣などを行うサポート体制を構築できないか、諸葛と議論を進めています。
不登校者数35万人
「我慢しなくていいんだよ」「学校だけが学びの場ではない」「多様な学びの奨め」
こんなことを評論家も学者も教育委員会も文科省も声を揃えて推進しているのだから、当然の結果だと感じる。
静岡県も不登校者数は12,000人にのぼる。
先に行われた決算特別委員会(分科=文教警察委員会)で、令和6年度の不登校対策費の執行率が80%程度で600万円余りを返還していることに対し
「年度末ギリギリまでほかにできる対策は無いのか?」「計画通りに事業を完結し予算が余ったのなら結構なことだが、何の実績(不登校者数の減少)につながっていない」と厳しく追及。
「憲法で保護者は子どもに義務教育を学ばせる義務があると同時に、自治体は社会人として世の中で生きていく最低限の基礎学力である義務教育の学びを無償で提供する義務がある」
「不登校とは、その学びの提供を拒否されたということ。」「さらには、学びの無償提供ができないということは、義務を放棄していること」
「これは義務教育にとって致命的な事案だと、もっと危機感を持って対策に汗を流してほしい」と厳しい意見を述べました。
最近の離婚率の高さも、「我慢しなくていい」「一人一人の個性や人格・人権を最優先にする生き方」こんなスローガンともいえる風潮が影響していると感じます。
無理と感じる度合いやその重さは個人差があるので一括りでどうしろとは言えませんが、人が本能以外の理性やルールに縛られながら集団行動や社会参加をする生き物である以上、日常の様々なシーンで我慢が生じます。
その我慢も簡単に乗り越えたりスルー出来る人もいれば、苦痛となって重くのしかかってしまう人もいるでしょう。
しかし、それらを自ら排除するために、集団から離れる。社会参加を拒む。
部屋にこもって独りで好きなことに没頭することは、ひととときの安らぎであって、一生続けるのは困難である。つまりその先にはもっと重い我慢が待っている可能性が高いと思います。
さらに不登校に限れば、その原因の多くは人間関係。さらに人間関係の多くの原因は「いじめ」だといいます。
外国では、いじめた生徒が転校(退学)になるケースが多いのですが、日本は、いじめられた子が転校し、知り合いのいない学校で再びいじめにあい、追い込まれて自ら命を絶ってしまうケースもあります。
陰口だろうが、パンチやキックだろうが、「暴力であり犯罪だ」ということを、まずいじめた側に毅然と説明することはしないのだろうか?
「何で、悪口言ったの?どうして手が出ちゃったの?」ではないんじゃないのかなぁ。
先ず、厳しく叱り、陰口や暴力が悪い事だと認識・認めさせる。その上で、そこに至った背景を丁寧に聞き、和解の道を探る。
犯罪を犯したら、まず拘束・逮捕。ですよね。
伊東市長選
議会解散を選択した田久保市長。
市議会議員選挙の結果は現職全員当選となり、31日にも再び不信任決議が行われ田久保市長は強制失職となり、伊東市は市長選挙に突入します。
まぁ、無駄と言えば無駄な選挙を行った田久保市長の無駄な選択には、どんな戦略があったのか理解できない。
でもって、市長選には自民党伊東市支部では前市長の小野氏で一般化を図り、小野氏も出馬意欲を示しているとの報道です。
もともと田久保氏の学歴詐称に端を発したドタバタ劇なのですが、前回の選挙の争点は「メガソーラーと新図書館建設の是非」でした。
メガソーラーは議会も行政も反対をしていた案件なので、争点にすること自体、疑問を持ちますが、新図書館建設は伊東市民にとっても大きな問題だったと思います。
小野前市長は新図書館建設を訴え、田久保市長は反対を唱えた結果、民意は新図書館建設に「ノー」を示しました。
この現実を踏まえ、今度の出直し選挙に小野前市長は「図書館建設」を訴えたら、苦戦もしくは敗戦すると思いますが?
逆に「図書館建設は見直す」と白紙撤回して立候補した場合に、たった5か月で方針をひっくり返すのか?という不信感も生まれます。
民意は図書館建設に反対の意を指名sているので、老婆心ながら、自民党さんは別の候補者を擁立し民意に基づき図書館の建設は白紙として考える。とした方が、市民も共感しやすいのでは?
全く要らんお世話で恐縮ですが、田久保さんの再選だけは勘弁してもらいたいと願ういち静岡県民のボヤキでございます。
田久保さんは、卒業証書なるものを公に公表せず、結果として嘘をつきな人。記者の質問にも明快な答弁をせず、または答弁を拒否し続けてきました。
市民との間に信頼関係が成り立たない状態では、県や周辺市町との信頼関係も構築するのは難しいので、この状態が続くと一番の不利益をこうむるのは伊東市民なのです。
無駄な時間と無駄な経費を使う結果となってしまいましたが、半年の停滞で済んだ。と言える結果を望んでいます。
高市政権がスタートしました
過半数割れしていた与党から公明党が連立を離脱し、立憲民主党も政権交代への大チャンスと捉え、首班指名に「野田」への投票を呼び掛けたが、まとまらず「玉木」でも良いと言い出した。
国民民主党の玉木代表を総理にしてまで政権交代をしたいのに、安全保障やエネルギー政策など根本的な政策の隔たりは大きく、この話も消えつつある中、安住幹事長は「維新から総理でもいい」と、なんとも軽はずみな発言。
一方、自民党総裁に選出された高市さんは、公明党の離脱を受け、国民民主党と日本維新の会に急接近。最終的には、維新の突然の主張である議員定数削減や副都心構想にも理解と受け入れを示し(理解したふりをしただけ?)で
閣外協力ではあるが短期間で「連立のてい」を作り上げた。さらに参政党や日本保守党、無所属まで首班指名の協力に高市総裁自らがお願いに上がり回ったといいます。
何が何でも、どんな手段を使ってでも、政権を維持しなくてはならない!という高市さんや自民党の執念と、千載一遇の大チャンスと騒ぐ割には、真剣みの無かった野田代表や執行部の「本気度の違い」が今回の自民党政権の継続と高市内閣を誕生させたと感じています。
立憲民主党の何人かの議員の言動を見ていると、「静かな良い子」を思い出す。
口論はしないけど仲間のグループでヒソヒソ話をしてほくそ笑む。
争いが起こっても決して加わらないので、争いが終わった後はどっちつかずの宙ぶらりんで存在感は薄い。
立憲民主党は、自分たちこそがエリート集団だと勘違いしている議員もそこそこ見られるのが残念なところ。
国民民主党も、少し同じ匂いがします。
だから反自民の有権者が、れいわ新撰組や参政党など「過激な集団」に惹かれ共鳴するのも何となく分かります。
自民党と徹底的に対峙する、そのために必要な野党共闘なら、手段手法はなりふり構わない。みたいな戦う姿勢に欠けているのが立憲民主党。
戦う姿勢はそこそこあるが、戦う相手との戦い方(交渉力)がイマイチなのが国民民主党。
そんな印象を持っての新内閣スタートであります。
組織の不思議な算数
行政に限らず大きな組織では不思議な算術が成り立っているようです。
1-1=0 つまり、賛成1から反対1を引くと白紙になるのが、賛成となり物事が動き出す。
0+0=0 つまり、賛成意見も反対意見も出なかったのに、賛成として物事が動き出す。
1ー?=? つまり一人の考えに誰も疑問を持たずに、物事が動き出す。
1±1=2又は1又は0 答えが確定していないのに、物事が動き出す。
1-2=-1 反対意見が多かったにもかかわらず、物事が動き出す。
こんな矛盾した算術は、組織や担当がどっちを向いて計算(発言)しているかで答えはいとも簡単に書き換えられます。
民主主義や議論って何だったんだろう?と感じることも少なくありません。